本展を知ってもらうために、まず主役の3人それぞれの作品を見ていくことにしようと思います。

デザインの高松 明日香の作品は、ちょっとつめたい。描かれたものにそれ以上の意味は与えられない。そこには作家の感情とか意図とか内面的なものは混じらない。 モチーフは写真や絵画をトリミングしたもの。 写真の内容がただただ描かれている。作品の前に立つと、その物理的な作品との距離とは別の「距離感」を感じる。 ちょっと突き放されて冷たくされたような。 でも、作品はアクリル絵の具と筆で描かれていて、筆跡がある。確かに、ある。 そのことになぜかほっとしてしまう。ほんの少しやさしくされたみたいに。だから、「ちょっと」つめたい。 作品を見ているとその矛盾に惹かれていく。 物語性が見えたり、感情移入してしまうような画面ではないのに、なんかちょっとだけ温度がある。 画面自体はしんと静まりかえっているはずなのに、その1秒後には何かが起こりそう。 この画面の中の時間は一旦切り取られてはいるけれど、完全に切り離されているわけではなくて、少しの間一時停止されてるみたいだ。 「トイレ行くからちょっと一時停止」 戻ってきたらまた続きを再生できるような。 何も暗示していないはずなのに、何かを予感させる。 つめたいのにちょっとだけやさしい。 肌寒い冬の空の下で、あたたかい(ぬるめの)白湯を飲んでいるような気分。 そんなヘンテコな例えをしてしまうくらい、不思議な魅力がある。

日本画の山梨 千果子の作品は逆で、意志のないものにさえ命が宿っているように、じんわりとあたたかい空気が漂っている。日本画で使用される岩絵の具のきらきらとした質感も手伝って、独特のぬくもりがある。 「聞こえるよ」という作品には、数えるのが億劫なくらいの数の切り子の風鈴が描かれている。作品自体が大きいから風鈴ひとつは拳よりひとまわり大きいくらい。それらが画面全体に散りばめられている。まるで中央人物に引き寄せられて集まったみたい。風鈴に化けた精霊かしら。それとも言霊? 中央人物はその風鈴のささやきに耳をかたむけているのでしょうか。何が聞こえているんだろう。穏やかな表情を見ると悪いことではなさそうですね。良い知らせかもしれないね。 単に風鈴の音に耳を澄ましているのかもしれないけれど。 作品を見る側はあれこれ勝手に想像します。逆に言えばそうさせる力をこの作品は備えている、とも思うのです。 むしろ、ものすごく冷静な目で現実的な見方をすれば、これだけの数の風鈴に囲まれていたら、耳を澄ますどころか、ふさがなくちゃいけないくらいの騒音だろう。 でもそう感じさせないのがこの絵のすごいところ。「ちりんちりん」と優雅できれいな音色が聞こえてきます。ともすれば夢の中かと錯覚するようなうつくしい音色が。

ただごとではない。油画の佐藤 隼の作品「一日の時間の収集」を見たときに感じたこと。びっしり何か密集している、膨大な量であるという物質的な迫力。はじめはただただそれに圧倒されて、呆然とする。なんだ、これは。 なんなんだ。 キャプションに近寄ってようやく納得する。
日々過ぎていく時間を視覚化する為に、1分に1枚を24時間 計1440枚撮り続けた。

タイトルに添えられたこの文章をかみしめながら読んだとき、1日にどれだけの景色を私たちは見てるんだろうと、ぼんやりと、でも結構切実に、思った。 あまりにも膨大すぎてうまく考えられない。だからぼんやりと、思う。1日に見たはずの景色をはっきりとは思い出せないし、無論見えないわけだけど、この作品は、それをじんわりと実感するための手がかりになってくれる。そして少しずつ滲むように、その実感が体内にしみ込んでいく。 1分の間に私たちはこんなにも多くのものに出会っているという、提示されて再確認する当然の事実。そして、まったく同じできごとに出会うことなんて、一生のうちに一度もないんだなということを、またぼんやりと感じて、少しじーんとした。 そんなこと思ったって、出会ったもの、見たはずのもの、片っ端から忘れていくんだという変えられないこと。 いつだったか、誰かが人間の脳は30分前のことさえほとんどきちんとは覚えていられないようにできていると言っていた。私たちのなかの記憶なんてほとんど幻想なのかもしれない。 見たはずの風景。でも、思い出せない無数の景色。 曖昧で、焦れったくて、切なくって、くすぐったい。 この作品の感想です。

作品から受け取ることは、人それぞれで違います。 こんなこと、言い尽くされてきたことだけど、あらためて言います。
前述したことは、私一個人の感じたこと。 実際に自分の目で見たら、自分の身を展示室に置いてみたら、 どんなことを感じるのか、是非試してみて下さい。
尾道白樺美術館スタッフ