尾道大学 美術学科 教員展  4月7日(木)



   
  いつか誰かが『これは虫か。』と私に尋ねた。



 『貌`09』 第2展示室を左手に入って、すぐ目に飛び込んでくる 塩川高敏氏の作品。 この作品に描かれているモチーフは『サボテン』だ。 サボテンが横たわって、その下に山の景色が描かれている不思議な構図の画面。
 
 このサボテンを、いつかの誰かは虫と言った。 

 私は瞬間、笑ってしまった。 サボテンを虫と間違ったことに対して、ではない。 あまりにあっけらかんとした様子でそんなことを言うので、思わず笑ってしまったのだ。
 その人いわく、『虫が空を飛んでいるように見えた』そうだ。 なんとも率直で、ユーモアのある見解。 そして、私がサボテンであることを伝えても、悪びれることなく『虫に見える。』などと言っている様子に、また笑ってしまった。



 『こんな感じでいいんだよなあ。』
 それはぽつりと浮かんで、じんわりと私に染み入った。

 

 美術作品を鑑賞するって、なんだか高尚で難解なことのよう。そんなふうに思われがちな気がするけれど、そんなことはなくて、とても楽しいことなんだ。 肩肘張らずに、いろんなところをゆるめにゆるめて、景色を眺めるように自然な姿勢で向かえばいい。
 

 作品は確かに、画家の手によって紡ぎ出された、たったひとつのものだ。 だけど、画家の手を一旦離れ、こうして美術舘にわざわざ展示されるのは、ひとりでも多くの人に見てもらうため。 そして、その人自身にそれぞれで受け止めてもらうため。 解釈の仕方は私たち鑑賞者に丸投げされているわけだ。
 

 いっそ、自由気ままにおもしろがって、自分勝手に鑑賞してしまおう。そんなふうに思います。


 だいいち、サボテンとして描かれたものが、どこかの誰かに『虫』として鑑賞されているのって、なんだかヘンテコで、おもしろろくて、おかしくて、だけどとても自然なことのように思うのです。

 もちろんそれは、モチーフの捉え方に限ったことではない。 作品から受ける印象、すき、きらい、色彩からイメージすること、作品によって思い起こす過去の記憶...言い尽くせないほどに私たちはおもいを巡らす。




 あたたか   海   呼吸   つつむ、つつまれる   やわらか   まるい   あまい   湿り気のある   もや   こどものはく吐息   体温   ゆめ   ファ   ひろまる   繰り返す   流れる   一瞬間   中   にゅう   とろける   一体   すべて   うすくてあわい   しっている   なめ   うた   おへそから下腹部にかけての   なぞる   くも   ひかり   肌   潜在   漂う   ぬわあ〜ん   こちら、むこう   浅い眠り、深い意識   曖昧   さわる   つかめない   耳を塞いだときの音   くぐもる   わたあめ   彼方   ぬるま




 『大気』 エントランスで私たちを迎え入れてくれるように壁に掛けられたこの作品は、奥山民枝氏のものである。 そして、この作品と対峙して浮かんできた言葉が上に記したもの。 意味があるのかないのよくわからない言葉も混じっているけれど、浮かんできたものは仕方が無い。
 文字におこし、羅列してみて気付いたこと、それは、整理がつくどころか、余計にぼやけて輪郭を失っていくということだ。 誰かに脳みそをとろ火でぐつぐつと煮込まれて、その上、ゆっくりゆっくりかき回されて、どんどんどんどん溶けていくみたい。 ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。  ついには、自分でも何がなんだかわからなくなる。 



 それでも、とりとめもなく並べられた言葉たちは、確かに、その時、思ったことば。 それは作品から自然とぽろぽろこぼれ落ちたものではなくて、作品を見た私をとおって、ふつりふつりと湧き出たことばなのだ。 私以外の人は知り得ないし、私は他のだれのことばもしらない。未知のこと。
 


 心が少し、ふわっと浮き立つ。 ジェットコースターに乗ったときの浮遊感。あれに似た感覚だ。
 そういうものを大切に、丁寧に扱いながら、作品との関係を築きたい。



 作品に、すきにストーリーを与えること。
 それをことさら、気に入っている。 単純に楽しい。とても。 そして、そんなときにも、あの、楽しげな感覚をおぼえる。
 


 吉原慎介氏の『黄昏道』、これは誰もが何かしら、物語を与えて鑑賞してしまうのではないだろうか。 とても叙情的な作品なのだ。 



 夕暮れ時の田舎道、 左手には赤いキャップ帽の少年、右手には少年というよりは青年と言った方がしっくりくる年頃の人影。 道のまわりには草が生い茂り、あおい香りが鼻をかすめる。 虫か何かが草の中をカサカサと蠢く微かな音。それがとても近いのか、少し遠いのかはわからない。 風もなく穏やかで、だけど湿り気のある空気。 夕方と夜の中間。 暑くもなく、寒くもないけれど、じんわりと汗が滲む。 



 青年の手のひらは汗ばんでいるだろうか。 少年の方は、ひやりと冷たそうだ。 
 そしてなぜだろう、この少年の立ち姿が異様である。
 まるでこの世のものではないみたい。 
 背筋は不自然なくらいにすっと伸び、鮮やかな赤い帽子を頭にのせ、青年をしかと見据える。
 少年の背は、煌煌と夕日に照らされ、青年から見た彼は、逆光のためにきっと、シルエットでしかない。



 この緊迫感はなんだ。
 そして少年は何者なのか。 
 二人の間に交わされた言葉は?
 このあと二人は別の道を行くのか?
 あるいは、少年だけが、ふっと姿を消してしまうのかもしれない。



 そんなふうに考え出すと、どんどんと膨らんで、収拾がつかなくなる。 それが楽しいのだけれど。


 
 他のどこかの誰かは、いったいどんなものを膨らますのか。
 きっと、違ったものだろう。 人の顔が、それぞれまったく違っているように。



 とどのつまり、私たちは作品と向かい合っているようで、自分自身と向き合っているのだ。
 だから当然、解釈は少しずつずれて、まったく別々。様々なもの。
  

 いろいろな作品と出会えば、その分だけ、いろいろな『わたし』を見つけることができるのではないでしょうか。  
 
 今回の展覧会は、日本画、油画、デザイン、それぞれの教員の作品をいっぺんに楽しめるという、何ともお得な内容です。展示期間も5月9日までと、ゆったり開催しています。
 

 散歩の延長のような感覚で、作品をのんびり眺めに、そして、その中に見つかる意外な自分を覗きに、是非何度でも足を運んで頂ければと思います。







                               尾道白樺美術館スタッフ