10月30日 犬の目のなかの月、日。

  

 エナはこちらをまっすぐ見ている。 
  
 エナの視線はまるで鑑賞者の本質を照らし出すように、ただ、そこにある。



  エナとは、奥山民枝の、2年ほど前に死んだ愛犬の名だ。 入館して初めて出会うことになる一

  枚。

 「 犬の目のなかの月日 」

 今回の展覧会の副題でもある作品。

 彼女の目に捉えられ、最初は誰もがはっと息をのむのではないだろうか。

  そして、ゆっくりと、波がよせるように訪れる、やさしさと静けさに、とっぷりと包まれること

 だろう。

  


  奥山民枝にとって、生きる上で一番大切なことは何か。

 それは、「 わからないことがあること 」。

  例えば、宇宙のような果てのない広大な無限の世界、

   どこまでもどこまでも微細な細胞レベルの世界。

 画家は、これらの分野に強く関心を示し、同時に、それらは、彼女独特の世界観を培っている。

  知れば知るほどわからないことは増え、それは尽きることがないという。

 目に見えない世界、だけどたしかに存在している。

  この世はいったいどんなもので、そこに在る自分は何者なのか。

  そんな探究心が、生きる糧となり、画家に筆を握らせる。

  
  そして、人間の叡智や文明なんて、まったく及びもしない、深淵で計り知れない世界、画家はそ

  の自然世界と

 一体となる感覚を覚えるという。

  すべてのことは密接に繋がり、絡み合い、互いに響き合っている。

  その事実は、間違いなく彼女自身の根源であり、創作の源でもある。

 だから、ひとつのことに対して色々な見え方があって当然で、それを無理矢理括って、型にはめ込

 むくだらなさを、画家は強く訴える。

  振り子でいうなら、止まっている状態がそれだ。常識やしがらみで、動けなくなり、決められた

 視点でしかものを見ることができない。

  対して画家の振り子は、ゆったりと美しい弧を描き、右へ左へ、自由自在。時には軸を中心に回

 り出すかもしれない。

 その優雅で柔軟な思想は、どの作品にも反映されている。

  太陽、山、植物、雲、山、犬、モチーフが何であれ、彼女の手によって紡ぎ出されたそれらは、

 圧倒的な自然の神秘で充ち満ちている。

  そして、触れてみたくなるような、魅惑的な質感で目を奪う。

  その中でも、今回特に異色に見える「 犬 」シリーズ。

  それ以前の、太陽や山などの、要素を出来うる限り削ぎ落としたような、シンプルな画面を知

 る者は、とことんまで描写されたこの犬を見ると驚くかもしれない。

  しかし、画家はどんな作品に対してもリアリズムであることを前提に制作している。

 エナの作品は、その極みとも言えるのではないだろうか。

  でも、ただただ、エナをありのまま描きたかった、そんな風にも感じた。

 やわらかな毛の様子。 湿り気のある鼻。 つるりとした眼。 爪の硬さ。 厚みのある耳。 

 緻密に描かれたそれらは、見るものに、犬の温もりや、匂い、息つ゛かいまでも体感しているよう

 な錯覚を起こさせる。

  さらにそれだけではなく、一番始めの部分でふれたように、自分の中の本質、意識的ではない、

 潜在的な部分を垣間みているような、どきっとする感覚に襲われる。

  これはなぜだろう。 

 この絵を描くとき、きっと画家は、犬の不在をとてつもなく悲しんだことだろう。 でもその分

 だけ、一緒に生きた喜びをかみしめたはずだ。 そして、エナを描くことで世界とつながり、す

 べて、喜びも悲しみも、なにもかも引き受けて、まるごと溶け合った結晶がこの画面なのではな

 いか。

   

  しかし、画家は、こんなにもかけがえのない行為であるような創作についてさえも、
   

 「 絵を描くことは、まったく意味のないことかもしれないし、

  とても重要なことかもしれない。 」


  こんな風に言い放つ。

  行為自体にとらわれ、支配されることなく、だからこそ自由に、「 ただ描く 」という純粋

  すぎるとも言っていいような絵画表現が生まれるのではないだろうか。

   そして、そのことが、私たち鑑賞者の深い深いところまで染み入って、奥底にある何かに呼

  びかける。

  

    

                         MOU尾道白樺美術館[尾道大学]スタッフ


  

   

  



   

  

   

   

  

   


  

  
   

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