足下の辺境 小野環展 12月24日
それは、いつの間にか失われていた。 少し目をはなした隙に。 事はすでに起こってしまっていて、過ぎてしまった。 時間は流れている。 とりかえしはつかない。
作者はある日、町を歩いていて、彼にとって印象的で気になる建築物に出会う。 しかし、それからしばらくして同じ場所を通ってみると、以前あったはずの建築物は消え失せ、かわりに素っ気なく新しい建物が建っていた。
過去のことは忘れ去られ、新しいものはごく自然に受け入れられていく。 しかし、作者は、その出来事をすくいあげる。
「 knifed sky1 」は、その時の風景が描かれている。中央にある建物のシルエットは現在のそれだが、そのシルエットに切りとられて見えているのが過去の建築物の断片だ。 先に過去の建物を描き、後から現在の風景でそれをふちどったのだ。
この画面はいったい、過去なのか現在なのか。どちらが描かれていて、どちらが描かれていないのか。 それらは曖昧に混じり合い、見るものを惑わす。
作品に多く登場する「植木鉢」もそうだ。 本来、家のまわりに飾られる植木鉢は、私有地と公共の道とを仕切る「境界」だ。 だけど、そうであるはずの植木鉢が、道路にはみ出して置かれているのを、誰でも一度は目にしたことがあるだろう。 私たちはそれを気に留めない。 しかし、作者は違和感を覚える。 溶け合ってぼやけていく境界線。 どこまでが私有地で、どこまでがそうでないのか。 曖昧で判然としない。 そして提示された作品と対面して初めて、私たちは立ち尽くし、妙な感覚を持つ。
毎日事は起きている。 例えどんなに些細でとるにたりない事であろうと、それらは空気を震わせ、確実に起こっている。 そして、私たちはほとんどのそれらを見落とし、とりこぼして生活している。 しかし作者はそれを拾う。 それを近くで見つめてみたり、遠くから眺めてみたりしながら、そのことを丁寧に咀嚼する。 そうして飲み込まれたものは、作者の手によって感覚的につくられていく。
私たちはそれを受け取るとき、少しの戸惑いと、大きな興味を抱く。 描かれたモチーフ自体は日常であるはずなのに、作者を介する事で、それらはまったく出会ったことのない、異質なものとしてそこにあるからだ。 ピントが合っているようで、実はまったくずれているような、辻褄が合っているようで、まるでそうではないような、つかみどころのない、奇妙な世界が、今ここに広がっている。
尾道白樺美術館スタッフ
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