平田玉蘊展 6月30日(水)









 上の4枚の写真は「寒山拾得図(三幅対)」という作品だ。今朝展示室のモップがけをしていて、この3人が妙に気になったので調べてみた。


 寒山(かんざん)、拾得(じっとく)とは唐時代の人物で、寒山は寒巌幽窟に住んでいたため寒山と呼ばれ、拾得は、国清寺の豊干(かぶん)に拾われ、養われたため拾得と言われ、国清寺の行者となる。そして、豊干は2人を悟りに導く。
 2人は国清寺に食事係として出入りするようになり、そこで出た残飯を食べ、乞食のような生活を送り、奇声、罵声を発したり、追いかけてきた寺僧の前で手を打ち鳴らし、大笑いしながらそこを後にするという奇行を見せる。 そんな、脱俗的で狂人じみた2人だが、仏教の哲理には深く通じていたという。



 この話に照らし合わせてみると、中央人物が豊干だろう。(明らかに1人だけ年齢がかけ離れているし、風格が違う。)そして、右にいるのがおそらく寒山だ。寒山は詩人だともいわれている。手に持っているのは自作の詩ではないだろうか。そうなると、左にいるのが拾得という箏になる。なるほど、辻褄も合うし納得できる。



 しかし、この話を知る前に、私自身が勝手に想像した筋書きとは大分違っていた。(当たり前かもしれないけれど。) まず、タイトルにある、寒山・拾得が人名だとは思わなかったし、この3人が人間だとも思わなかった。  だって、両側の2人は、人間にしては容姿が不気味すぎる。それに、よく見ると手の先の爪が異常に鋭い。妖怪だと思った。 中央の老人にしたって、仙人か何かそれに近い存在のような描かれ方だ。だいたい虎の上に腰をおろしているあたり、人間の業を超えている。頭の形もヘンテコだし、彼の頭部のまわりは薄ぼんやりと光っている。
 妖怪と仙人がどういう繋がりで描かれているのかはよくわからなかったけれど、とにかく右側の妖怪(そのときはそう思っていた。)が、なにやら文章が書かれた紙を広げて読んでいて、それをあとの2人が聞いている、というシチュエーションだけは想像できた。しかし、よくわからないだけに、余計じっくり見てしまう。両脇の2人は、見れば見るほど気味が悪い。表情も、一応笑顔だけれど、笑っているというよりは、にやついている、という表現がしっくりくるようなじめっとした笑みだ。唇も妙に赤くて、艶かしい。それに対して中央の老人は、きっと口を結んで、毅然とした表情で、目元もきりりとしたつり目。クールな印象だ。そんな対照的な2人と1人だけど、共通点もある。それは、髪の毛が触ってみたくなるくらいふわっと柔らかなところ。寒山も拾得も、握手とかしたくないし、(爪が痛そう。)基本的に近寄りたくない雰囲気だけど、髪の毛だけはちょっと触れてみたい。シャンプーとリンス、欠かしたことなさそう。いっそいい香りがしそう。豊干の髪の毛も、雛鳥をなでる時みたいに、そっとなでてみたくなるような毛質だ。耳の毛まで描かれている。すごい。風にそよぐそれを見てみたい。こんなにも繊細に描いておきながら、衣服の表現は、それに比べるととてつもなく大胆なものだ。線は荒々しく、太い。 顔を描いているときはきっと、息を潜めて、慎重に筆を運んだことだろう。それに対して、衣服を描くときは、一息に、勢いに任せて筆を滑らせたのではないだろうか。 その、顔周りと衣服のかき分け自体は、水墨人物画の伝統らしく、とくに玉蘊特有の技法ではない。しかし、その伝統をしっかり魅せることが出来るだけの、彼女の技術と才能と感性は、この画面から、時代を超えて現代の私たちに届いている。それは、なんだかとても、感動的な出来事に思う。


 そうやって、ひとりひとりの髪の毛に夢中になってしまうくらい、じいっと観察していると、1人(3枚のうちの1枚の画面)を見ているつもりでも、実は、3人(3枚の画面)を同時に見ていることに気付く。3つの画面は、絶妙なバランスで1つの空間を描きだしているからだ。寒山と拾得のいる画面は、背景がほとんどと言っていいほど描かれていない。それなのに空間に彼らはいる。それは中央の豊干の画面に描かれた背景とか、3人の距離感とか、配置とか、白の入り方とか、いろんな要素が反応し合って、それがそこにあるからだ。 作品の前に対峙すると、私と彼らの間には何の隔たりもないような、自分もその場所で寒山の詩を聞いているような気分にすらなる。実際、寒山の持っている紙に書かれた内容はすごく気になる。 寒山も拾得も、気味の悪い笑顔ではあるけれど、とても楽しそうだし、豊干はこれ以上ないくらい真剣に耳を澄ましている。気になって当然だ。







                                       白樺美術館スタッフ




 







 

平田玉蘊展 6月23日(水)




 


 今、白樺美術館の展示室は、江戸時代に生きた女流画家 ・平田玉蘊の作品で飾られていて、なんだかいつもより厳かな雰囲気だ。。そして、作品をひとつひとつ見ても、その細やかな筆使いに息をのむ。

 特に印象的だったのが【百花百鳥図Ⅰ】【百花百鳥図Ⅱ】だ。画面全体に花が散りばめられて、その中に色鮮やかな鳥が描かれている。その鳥たちの羽の質感は細かに描きわけられていて、それを目で追っているだけでも飽きることがない。鳥だけでなく植物も、丁寧に、そして緻密に描かれている。葉の葉脈や花弁一枚一枚にも手を抜くこと無く仕上げられていて圧倒される。その上、画面を彩る色彩は、きらびやかで、華やか。誰が見ても綺麗とか美しいとゆう感想を持つ、そんな作品だ。しかし、展示されている作品すべてがそうかとゆうと、そうではない。これは悪い意味ではなくて、良い意味で、だ。

 全部の作品を見てみて思ったのが、平田玉蘊とゆう人は、いろんな描き方をする人なんだなあとゆうことだ。それは単純に、描かれた時期とか描かれた内容とかも関係するのかもしれないけれど、それにしても作品それぞれの表情が、ひとりの作家のものとは思えないほどバリエーション豊かに感じた。

 例えば、【不二越龍松林六童図】は、とても奇妙な作品だ。11人の子どもが松の木の下に群がっているのだけれど(潮干狩りをしているらしい)、そもそもこの子ども達が、子どもの風貌からかけ離れているのだ。まず最初に目につくのが、この子達の体つきの気味悪さだ。背丈は確かに子どものそれだが、手足の筋肉のつき方がものすごい。異常に隆々だ。しかも全員。何か理由があって、こうゆう描かれ方になったのかもしれないけれど、それを知らない私にとっては衝撃的な光景だ。そしてみんな、はっきり言ってかわいくない。不細工だ。表情もうまく読み取れない。何を考えているのかわからない。
ひとくちにこう言ってしまうとけなしているようだが、決してそうではない。この11人は、ミステリアスで、なんだか気になる存在なのだ。それに、じいっと観察していると、牛のお尻を後ろから押している子どもは、実はちょっとしんどそうな顔色を浮かべているんだな、とか、右端の方にいるやつは、ほんの少しだけ他の子ども達より男前だな、なんてゆう発見もあって楽しくなってくる。
少し離れて見ても、薄暗い画面の中で子ども達の薄ピンクの肌色が、発光しているように浮かび上がってきて、不思議な存在感を放つ。なんだか目が離せない。

 そして、画面左上のもやもやは何だろう、とか、【不二越龍松林六童図】なのになんで11人なんだろう、とか、そんな事まで気になってくる。でもそれを、知りたくないような、知らずにそのままぼんやり眺めていたくなるような、そんな不思議な作品だ。



平田玉蘊展


6月19日(土) - 7月4日(日) 会期中無休 10:00~18:00

常設室 小林和作

作品数 21点 古鏡8点 入船先生遺品数点



 時は幕末、黒船の来航から3年後の1855年69歳で亡くなった玉蘊。玉の浦の水辺を見つめるように佇む持光寺(西土堂町)に彼女の墓があります。その墓碑には「平田玉蘊」。位牌には戒名の裏に「平田章(あや)」とあります。彼女は、当時女性の慣例であった、誰それの妻、或いは娘いう表記ではありません。一人の女性画家としての生涯を送ったことが、ものを言わぬ墓碑が語ってくれているようです。この「章(あや)」という名の由来を尋ねていくと、そこには人として、女性としてのか弱き一面と、自立した強き女性が画業に専念する・・・その想いの両面が見えてきます。幕末を目前とした時代に生きた玉蘊。その生き様は、当時としては実にまれな・・・画業で生きる自立した女性そのものでした。

 尾道ゆかりの画家、平田玉蘊の顕彰につきましては、昨年亡くなられた故・入船裕二先生(尾道市文化財保護委員参与)が平成6(1994)年から「平田玉蘊忌実行委員会」として、世話人の中心となって活動して来られました。主な活動内容は、毎年命日である6月20日に玉蘊の菩提寺の持光寺で「玉蘊忌法要」を営み、それに合わせ玉蘊作品の紹介や講演会などが催されてきました。入船先生は生前、玉蘊の顕彰が将来滞ってしまうことを危惧し、会の後継を私どもに託してご逝去されました。先生の遺志を継承し、新たなスタートを切るものとして、会の名称を「平田玉蘊顕彰会」と改め、微力ながら玉蘊の偉業を後世に伝えることを目的に発足致しました。

その第1段となります本展覧会「平田玉蘊展―絵を描き成す君よ―」では、未公開の個人コレクションが初の一般公開となります。今まで知られていた花鳥図だけに留まらない玉蘊の幅広い画風をご堪能頂き、今も尾道の人々の中に生き続ける「平田玉蘊」の存在を知っていただければ幸いです。
  
                



                      平成22年 6月19日
                           平田玉蘊顕彰会  会長 寺岡昭治